世界遺産めぐり
安徽省・黄山市  仙境に登る
 
    安徽省の南部に位置する黄山(標高184一メートル)は、松や石、雲や泉の四つの絶景で知られる天下の名峰だ。今から約二億年前の地殻変動により、現れた山である。明代の旅行家であり地理学者の徐霞客は、二度もここを訪れ、素晴らしい景色を前にこう感嘆した。「天下に名峰ありといえども、黄山には及ばない。ひとたび登れば、他の山なぞ目に入らぬのだ!」。多くの人々がそうであるように、私もかねてから強い憧れを抱いていた。一帯の風景区は、1990年に国連の世界文化・自然遺産の一つとして登録されている。そこで新世紀の幕開けに、夢を果たそうと黄山制覇に挑んだのである。
 
    登山前夜は、宿を借りたふもとの黄山賓館で温泉に入った。この辺りでは唯一の温泉施設だという。入浴はもちろん、出湯を飲むこともできる。湯治場としての医療効果も認められている。一時間48トンと湯量も豊富だ。お湯につかるとちょうどいい湯加減で、心地良いことこの上ない。出湯を口に含んでみたが、臭みのないまろやかな味だった。こうして体も温まり、この日の疲れもいっぺんに吹き飛んだ。1979年7月、黄山を視察した鄧小平氏が温泉に入り、「天下名泉」という親筆を残したという。まさに言い得て妙だと、実感した。
 
    翌日午前は曇り空だった。同行メンバーの陸さんは、33年間に60回以上も黄山の写真を撮った「黄山通」だ。雲の動きをじっくりと観察する彼が言う。「急いで登ろう。雲海が見られるぞ」。そこですかさず荷物をまとめて、ケーブルカーに乗った。登るほどに雲は切れ切れになり、周囲も明るくなっていった。標高1200メートルほどのところで、見上げた空は真っ青。ふもとではぼんやり見えた山々も、はっきりと見えるようになった。我々はまるで仙人になったかのように、雲に乗って「天界」へとやってきたのだ。
 黄山の景勝区は、前海、東海、西海、北海、天海の各区に分かれている。北海の名勝・清涼台まで徒歩わずか5分の獅林ホテルを選び、チェックインの後すぐにカメラを背負って、西海へと向かった。
 
    ダイナミックに雲が流れる雲海は、黄山の奇観の一つだ。二キロ半ほど歩いて、雲海の観賞ポイント・排雲亭に到着した。ここから西の松林峰の絶壁に開かれた小道を行くと、新開発された「夢幻世界」という景勝区に入る。行く道も実に変化に富んでいた。天上に浮かぶかのような桟道あり、巨大な岩石のトンネルあり、人工の石段あり……。また、ツタや松、岩石を模したと思われる路肩のフェンスは、石やセメントで造られており、建設者たちの苦心のほどがうかがわれた。
 
    西海の全貌は、排雲亭で望むことができる。しかしその先の夢幻世界への桟道は、とりわけ趣があり、旅人を飽きさせることがない。山々は見る角度によってその表情を変え、時には緞帳の後ろから表舞台に出るかのように、秀麗な姿を見せた。雲海は波立っては山頂を島に変え、薄霧はベールのように山峰を包んだ。山の景色は、まことに千変万化の味わいがある。
 
    我々は歩きながら写真を撮った。雲海や山の一つひとつを収めたかったので、フィルムは思いのほか使い込んでしまった。絶壁の上の平台から見下ろすと、滅多には見られないという奇石「高足踊りの仙人」が、霧の中で見え隠れして舟を走らす船頭のよう。遠方の「雲外」「雲際」二峰の間を流れる雲は、水しぶきをあげる大瀑布のようだった。見事な景色を一瞬でも逃すまいと、のどの乾きも空腹も忘れて、シャッターを押し続けた。日が落ちる頃、ようやく満足した我々は、カメラと三脚を抱えて帰路についた。
 
    12月31日。前夜に小雨が降ったので、随分と湿気が感じられた。夜明けに窓を開けると、目の前の松が白い氷層に覆われていた。樹氷だ。「よしっ!また撮るぞ」。我々は興奮を押さえきれずに飛び起きて、清涼台へと向かった。しかし、そこはすでに日の出を待つ人たちで混雑していたため、一段と高い獅子峰を目指すことにした。獅子峰の山頂は最高の撮影スポットである。そこからは北海の山々を一望することができた。この時、東の仙女峰の後ろから昇り始めた太陽の光が、奇峰「十八羅漢朝南海(南海に向く十八羅漢)の尾根に差し込んだ。樹氷に覆われた木々が、陽光に照らされ輝きを増す。黄山はあたかも銀の衣装をまとったかのような厳かさだ。気温が上昇するにつれ雲海も動き始め、低い山をスッポリと覆ったり、山々の間を流れたりしている。雲は山並みを空へと押しやっているようでもあり、波のうねりのようでもある。薄い雲はベールとなって山々を包み込み、まさに夢幻の境地であった。
 
 
    黄山は古代、イ(黒に多)山と呼ばれた。言い伝えによると、中国古代の五帝の一人とされる軒轅黄帝は、ここで仙薬「九転還丹」を作り七錠を服用、温泉に浴した後に昇天した。また唐の玄宗皇帝・李隆基は道教を崇拝していたが、道教の始祖が黄帝であることから天宝六年(747年)6月17日、ここを黄山と改名したのだそうだ。獅子峰の頂上に立つと、鼻の奥まで凍りそうに厳しい寒さである。雲が体にまとわりついては、流れていく。仙境の中に身を置いた私は「天人合一」(天と人が一体となる)と悟ることで、不思議と寒さを感じなくなった。漢字の「仙」は人と山の二文字で作られているが、私はまさに黄山で仙人になったかのような思いであった。
 
   夕刻、我々は西海の丹霞峰に登り、20世紀最後の日を送ろうとする人々の仲間入りをした。赤い太陽がゆっくりと、九竜峰後方の雲を染めながら沈む。その光が消える瞬間、人々は大声で世紀の太陽に別れを告げた。
 
    夜半には、清涼台に設けられた巨鐘の辺りに大勢が集まった。世紀の鐘の音を聞こうというわけだ。1月1日零時零分――鐘が鳴った。新世紀の幕開けだ! 私は満天の星を仰ぎながら、神秘的な大自然と時の流れに思いを馳せた。
 
    夜明け前は、東海の景勝地・石筍矼へと走り、初日の出を待つ人々に加わった。東の青い山々は薄霧をまとい、やわらかな曲線を描いていた。黄金から紺碧色へと変化した空が、だんだんと明るくなった。みな興奮気味だ。空の果てから一筋の光が差し込んだ。「出たぞ! 出たぞ!」。21世紀の太陽に、一斉に大歓声が沸き上がった。レンズの向こうの山並みが光輝いている。私は迷わず、シャッターを切った。 
 
安徽省・宏村、西逓  民家の「博物館」
    安徽省の南部は、その昔「徽州」と呼ばれた。二千年余りの歴史を持ち、9800平方キロの広さを誇る徽州には今も、明、清代の民家建築が5000軒ほど残されている。とりわけ人々を魅了してやまないのが、古い民家の「博物館」と称される安徽省イ(黒に多)県にある二つの村、宏村と西逓だ。2000年にはここが、ユネスコの世界文化遺産として正式に登録された。
 
 
    徽州は古来より、多くの名士を生み出した地として知られる。宋の理学者・朱熹、清の哲学者・戴震、商人・胡雪岩、近代の鉄道工事専門家・詹天佑、画家・黄賓虹、教育者・陶行之、文学史学者・胡適など、徽州出身の名士は枚挙にいとまがない。また明、清代に繁栄をきわめた「徽商」(徽州の商人)は、この地の文化的発展に貢献した。それは、新安理学、新安画派、新安医学、徽派建築、徽派篆刻、徽派版画、徽派三彫(木、石、レンガの彫刻)、徽劇、安徽料理、徽墨などに代表され、世界的にも影響を与えた中国三大地域文化(その他はチベット文化、敦煌文化)の一つ「徽派文化」の形成にも、大きな影響を与えたのである。
 
    宏村を訪ねると、村の南側に位置する大きな湖にクギ付けになった。長さ200メートル、幅40メートルの弓形の湖で、土地の人たちに「南湖」と呼ばれる。岸辺には巨大な古木が生えそろい、そこから向こう岸を見渡すと、民家の濃灰色の瓦としっくいの白壁が湖面に映り、まるで一幅の水墨画のよう。人々が「中国画の村」と親しむのもうなずける。
 
    湖岸に残る往時の私塾「南湖書院」(別名「以文家塾」)は、清の嘉慶19年(1814年)に住民の出資によって建てられた。格子造りの玄関をくぐると、そこが書院の大広間「志道堂」(講義が行われた部屋)である。広間の梁には「万世師表」(孔子は永遠の師)と四文字で記された扁額が、両側の木柱には木彫りの対聯(吉祥の対句を書き分けたもの)が、それぞれ掲げられていた。往時の書院をしのんだ対聯には、「漫研竹露裁唐句 細嚼梅花読漢書」(竹や梅の花を前に、唐詩を詠み、漢書を読む)という風雅なものもあった。正面の壁には、封建時代の道徳思想「朱子治家格言」が掲げられていた。
 
    さらに奥へ進むと、書生たちのために孔子の位牌を祭った文昌閣があった。このほか、啓蒙教育や文人たちの集会のために使われた場所も含めて、書院の敷地総面積は6000平方メートル余り。記録によれば、17世紀半ばに南湖の附近には六カ所の私塾があり、「倚湖六院」と呼ばれたという。宏村は小さな村だが、三、四百年も前の人々が、いかに教育を重視していたかがわかる。
 
    村の中心部へ向かうと、路肩に石で築かれた水路が続き、清らかな水が流れていた。住民たちがその水を使って、洗濯をしたり、野菜を洗ったりしていた。「牛腸水セン」(牛の腸のような水路)と呼ばれるその水路は、明の永楽年間初め(1405~1407年)、土地の人々が地勢の落差を利用して、西の渓流と東の地下水をこの地に引くため、築いたものだ。これにより、人々は便利で快適な生活を得たばかりか、火災などの被害も免れることができた。
 宏村で最も雄大なサユ派古民家建築が、「民間の故宮」と親しまれる承志堂だ。歴史上からも明、清時代は徽商の繁栄期だが、承志堂は清末の塩商人・汪氏が、咸豊五年(1855年)に建てた住宅である。
 
    役人と商人の一体化が特徴だったサユ商は「故郷に錦を飾る」ため、ふるさとに豪邸を建てるのが慣わしだった。承志堂の玄関を入り、中庭の八字門(八字形の門)を抜けると、ようやく主体建築の門楼(屋根付きの門)の前に出た。どっしりと構えた門楼は、なんとも威厳があった。レンガと材木で造られた建物の上部には、レンガや材木、石を用いた精巧なレリーフが施されており、当時の主の豊かさやこだわりのほどがうかがえた。レリーフには戯曲や故事、民俗の祭事、吉祥動物、書の対聯などの内容が、それぞれに刻まれていた。「文化大革命」が始まった1966年、人々はレリーフに泥を塗り、その上に毛沢東語録を張りつけたため、結果的にはレリーフが最良の状態で保存された。その後、86年に泥が取り除かれて、レリーフが再び日の目を見たのである。
 
   一方の世界文化遺産・西逓は、宏村の南から約15キロに位置する。村の入り口にそびえる石牌坊(鳥居の形をした石の牌楼)は、一キロ離れた外から見てもそれとわかる大きなものだ。明の万暦6年(1578年)に神宗皇帝の批准を受けて、四品朝列大夫(朝廷役人)・胡文光のために建設された。明、清代当時、西逓にはこうした石牌坊が十五カ所あったが、歴史の変遷を経て現存するのはこの一カ所だけとなったという。
 
 
    西逓村に入ると、徽派民家の「博物館」に足を踏み入れたかのようだった。小道に面して古い家屋が建ち並び、しっくいを塗った白壁や濃灰色の瓦、ひめがきや玄関上部のレンガのレリーフなど、いずれも徽派民家の特徴をよく表していた。
 
    唐代末期、昭宗皇帝の太子・明経は反乱から逃れて西逓へたどり着き、胡姓に改姓した。その子孫がここで繁栄し、西逓の歴史を築いた。それでここでは先祖の祭祀が重視され、宗族の祠堂が村の至るところに建てられたのだ。祠堂はまた、大きさによって宗祠、総支祠、分支祠、家祠の四種に分かれる。歴史的に徽商は、商いで富を得て官吏になった人が多く、出世したら必ず故郷に祠堂を建て、先祖を祭った。西逓の商人も例外ではなく、最も栄華を極めた時にはここに二、三十カ所もの祠堂が築かれたという。現在は、完全な形で残るのは、わずか四カ所しかない。
 
    民家の中に入ると、整然と区画された間取りが印象的だった。中央に広間が、両側に左右対称の寝室があり、また、どの家にも吹き抜けの方形の中庭があった。自然の明かりを取り入れ、風通しをよくするためである。庭には明代に造られた水路や、下水道もあった。
 
    路上から民家全体を眺めると、二階の窓の多くが小さいことに気がついた。地元の人に聞くと、「昔、男は商売に出たきり、何カ月も何年も帰ってこないことがあった。それで、妻の浮気を防止するため舅姑が階下に住み、二階の窓も小さくして出入りを禁止した。この辺一帯の牌坊には、貞女や烈女を称える『貞女坊』や『烈女坊』も多いのですよ」と教えてくれた。
 
    大きな窓の家もあったが、それはみな新しい建物だという。「小さな窓」にも「大きな学問」があり、時代の証にはこれほど強烈で深いものがある、と認識を新たにした。  村の商店には、直径約10センチ、厚さ5センチの中央がくぼんだ丸い食べ物があった。西逓特産の臘八豆腐だ。焼いた後、塩漬けにして乾燥させるため、出来上がるまでには約半月もかかる。試食してみると、歯ごたえがあり甘辛く、なんともいえないおいしさだった。
 
    臘八豆腐の由来も、徽商と関係があった。その昔、人々は商売で走りまわると食事がろくに取れなかったので、日もちがよく、栄養価の高い携帯食として、この臘八豆腐を「発明」した。今日では、西逓の特産として知られるようになった。西逓をたつ時、私のカバンの中にも臘八豆腐が数枚、収められた。